5 チェインバーグの検死報告
「そっちの検死医の報告はどうだったんだ?」
リプリー警部補は、オットー所長の研究室に足を踏み入れながら尋ねた。
部屋は書類や科学機器で溢れ、中央の電子顕微鏡の横には、死んだ男の組織サンプルが散らかっていた。
「失血によるショック死、だと聞いたが…」
リプリーは疑問を投げかける。
オットー博士は眉をひそめながら答えた。
「その結果で満足するんだな。用件はそれで終わりか?」
「あんたも同じ意見かい?」
リプリーは怪訝な表情を浮かべた。
「この男の乗っていた車の行動半径をどれだけ広げても、血痕が見つからない。外傷といえば、背中に大きな瘤があるだけだ。そこから出血したと彼らは言うが、他に吐血した形跡もない。鼻血が止まらなかったわけでもない。吐血も下血も痔の出血もない。何らかの理由で出血したのだろうと彼らは言うが、この『だろう』という言い方が気に食わない。血を流したというなら、血痕があるはずだし、それがないのはなぜだ?」
「だから、私はそんなことは解らないとさっきから言っている」
オットー博士は冷静に反論した。
「チェインバーグの検死医にも同じことを言われた。だが、何で死んだのかくらい、教えてくれても良さそうなものだろ」
「彼らは『失血死』だと言っているんだろ?」
オットー博士はリプリーの目を見つめた。
「俺は『何で』って訊いているんだ。何によって、死んだのか」
「出血によって死んだのだよ、リプリー警部補」
オットー博士は静かに、しかし断固として言い放った。
「あんた、俺を馬鹿にしているのか?」
リプリーは怒りを露わにした。
「馬鹿にはしていないぞ。ではもう少し説明しよう」オットー博士は静かに話を続けた。
リプリーは疲れた様子で答えた。「出来るだけ分かりやすく頼む」
オットー博士は白衣のポケットからペンを取り出し、壁のホワイトボードに向かった。
「見てくれ、この化学式は…」
彼は専門的な説明を始めたが、リプリーの困惑した顔を見て、言葉を変えた。
「すまない、私の話は少し専門的過ぎるかもしれないね。要するに、この組織サンプルからは、通常の出血死とは異なる特徴が見られるんだ」
リプリーは興味を持って聞いた。「それはどういうことだ?」
オットー博士はホワイトボードに描かれた式を指さしながら説明した。「この男が外傷や疾患、内臓破裂など推測可能な出血により死亡した場合、体内で特定の反応が起きているはずだ。この組織にはそれがない」
「特定の反応って何だ?」
「出血を止めようとする自然な反応のことさ。血管の収縮や血小板による凝固、フィブリンによる血液の固まりなどがある」
「特定の反応がないってどういうことだ?」
リプリーは納得がいかない様子で首を振った。「殺されたのか?でも殺されても、特定の反応がなきゃおかしいな」
オットー博士は微笑みながら答えた。「正解だ。これはただの失血死ではない。この男は血を抜き取られている」
「うぁー、今どき吸血鬼がいるなんて」
聞き耳を立てていたケンジは、たまらず大声をあげた。
リプリーは指先のタバコを慌ただしく吸い切ると、コーヒーの受け皿で吸い殻をもみ消した。
落ち着きを取り戻すと、「また来る」とだけ言い残して、研究所を出て行った。
リプリーが言わんとしていることは、分かっている。
もしもこれが他人による殺害だとしたら、どんな武器が使われたのか教えてほしい。また、もし事故だったとしたら、どのような事故が考えられるのか、具体的な例を挙げて説明してほしい…ということだ。
「しかし、その説明すら出来ないから、検死医もああいう結果報告をしたのだと、ぼくは思う」
リプリーが帰った後、ケンジはサンプルを見つめながら、オットーに言った。
オットー所長は白衣を脱ぎながら、笑っていた。
「たぶん、あの警部補は捜査の蚊帳の外にいるんじゃよ。それでも気になって首を突っ込んでしまう性分らしい」
「なぜ蚊帳の外に?」
「人々はよく、問題を曖昧にして、そのまま忘れ去ろうとする。それが現実の世界での一般的な対処法だ。あの男の融通の効かなさは厄介なんじゃよ。だけど、チェインバーグの検死医たちが言っていることには、実は根拠があるんだ。損傷した組織を見ていると、ある可能性が頭に浮かんでくる…」
「どんな可能性ですか?」
「それはまだ説明がつかん。警部補もそこを嗅ぎ付けたんだろうな」
ケンジは期待を込めて尋ねた。
「じゃあ、やっぱり吸血鬼が?」
オットー博士はケンジの顔を見つめ、なぜか苦笑した。
何か難しいことを説明しようとして諦めた時、オットーはよくそんな態度を取る。
「ケンジ、キミは家に帰りたまえ。あとは私一人で十分だ。」
オットー博士は、白衣を袖まくりしていた。
「帰っていいんですか?」
ケンジは不安げに尋ねた。
「キミは昨夜からここで働いている。その仕事も何とか片づいた。疲れただろう。パンダは明日、私が先方に届ける。明日は休んだらどうだ。」
「所長にしては、珍しいことをおっしゃいますね。」
「余分な給料は払えないからだよ。それともパンダの塗装をこのまま続けるかい?」
ケンジは手を消毒し、ロッカーのある事務室で帰り支度をした。
事務室に鍵を掛ける前に、もう一度研究室を覗いてみた。
年老いた一人の学者が、天井まである書架の一点をじっと睨んでいた。
青年はそっとドアを閉じ、事務室の明かりを消した。
外は肌寒く、ジャンパーの襟元に寒気が忍び寄ってきた。
彼は研究所の玄関に置いた自転車にまたがり、薄暮の中を走っていった。
つづく
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